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3話 消えない差別の理由

last update Last Updated: 2025-03-10 14:30:03

 帝都から、南部レルヒェ地方までの距離はなかなか遠いもので、汽車でおおよそ半日の旅となる。そこから更に数十分馬車に乗り継ぎ、ヴィーゼ伯爵家に。

 現在は昼過ぎ。帰る頃にはもう暗くなっているだろう。なかなかの長旅だ。

 ファルカ駅から汽車に乗り込んだキルシュは車窓から移り変わる景色をぼんやりとと眺めていた。

 日中の列車となれば当然乗客が多い。四人掛けの対面座席のシートは全て埋まっていた。

 都会の人間はそんなに他人をジロジロと見ないだろう。

 そうと分かるが、乗客も多いからこそキルシュは能有りの紋様を隠す為に上品なレースのあしらわれた薄手の手套をはめた。

 謹慎処分中の宿題も学院から出されたが、今はまだ手を付ける気になれやしない。

 ぼんやりと窓の外を眺めて、このまま時間なんて止まってしまえば良いのに……なんて、非現実的な空想ばかり浮かべていた。

 けれど、いつまでも続く錆色の街を眺めていても気が滅入るばかりだ。

 帝都中心地に聳え立つ、大聖堂の左右対称の円錐屋根が小さくなり始めた頃、キルシュはようやく外の景色を見るのを止めた。

 ほぅ。と、一つ息を吐き出して、気持ちを切り替える。そうして、キルシュは鞄から一冊の本を取り出した。

 それは、ツァール帝国建国時程に書かれた神話や民話などを寄せ集めた古書で、古本市で購入した大のお気に入りの一冊だった。

 しかし、この書物は旧語で綴られているので、とてつもなく読みにくい。それでも、全く読めない訳でもなかった。

 否……キルシュだからこそ読めるのだ。

 彼女は確かにパトリオーヌ女学院の成績最下位、劣等生だ。

 だが、それは重要科目の理数学においての事。

 古典文学・語学・史学といった大して成績に加点されない、部類の学識に対しては、学院で右を出る者はいないと程にこの才だけは長けていた。

 大陸にある周辺国とツァールに程近い離島国。合計五~六カ国語なら問題無く読み書きができる。キルシュとしてもほんの少しだけ誇れる特技だった。

 近隣国の言語においては、文法と法則さえ掴めば決して難しいものではない。

 それは、今日では古文と言われる旧語も同じだ。

 言葉は少しばかり冗長だが、法則さえ掴めば解読は簡単で、今日使われているツァール語と大差は無かった。

 数式を解く事は微塵も楽しいとは思わない。けれど、古文の羅列を解く事は心から楽しいと思えた。

 それでも、あまり役に立つ学識ではないので、〝劣等生〟に変わりない。語学も同様だ。貿易商などで働き、外国人との交渉の場があるのなら便利に違いないが、女貴族は今の時代も基本的に仕事なんてしない。

 女の学識というのは、あくまで男の補佐に違いなかった。

 それでも、成績というのはその娘が、どれだけ優秀か、有能かを図る大きな材料に変わりない。なので、今日の貴族の娘の結婚は、成績の良し悪しで縁談が来る・来ないと分かれるものだった。

『この才能が、理数学であればどれ程幸せだったのだろう』と、考えた回数は数知れず。人には得意不得意はあるので、仕方ないとほぼ諦めているが、これでは完全に将来嫁ぎ遅れるだろう。キルシュはほんの少しだけ、そんな焦りも持っていた。

 なにせ、クラスメイトたちの話に耳を傾けていれば、どうにも半数ほどの生徒が既に縁談があるのだと思しい。中には既に婚杓者がいる人だっていて……。

 自分には何だか、程遠い話のように思える反面で、少しだけ羨ましいように思えてしまう部分があった。

 現在十七歳。いつか恋だってしてみたい。素敵な男性に見初められるなんて淡い夢は抱いてしまう。しかし、何だかそんなの事は、夢のような話に思えてしまう部分もある。

(……さて。そんな事より、私どこまで読んだんだっけ)

 はぁ。と、ため息を一つ。キルシュは本の中身に向きあった。

 バラバラとページを捲って索引へ。

 ──精霊の項に魔獣の項、ツァール聖教の成り立ち……忌々しい神とされる刻の偶像の項に現在の信仰、機械仕掛けの偶像の項。

 これまで多くの古書を読んできたが、どれも似通った宗教じみた話が多い。

 そもそも、ツァール帝国と宗教の歴史は切っては切り離せない程に深いものに違いない。なぜなら、教権主義は今昔変わらないが、国が変わったと同時に崇拝も変わったのだから。

 帝都の象徴とされる、巨大なファルカ大聖堂だって本当は旧国の神を讃え祀っていた聖域だった。歴史的に築五世紀以上が経ったと聞いた事がある。

 しかし、二百年以上前、旧国が滅びた事によって、新たに信仰ツァール聖教が広がった。

 そうしてあの大聖堂は、取り壊される事も無くステンドグラスや象徴を差し替えるなどして、今日も使われている。

 それは、ツァール帝国中の〝築五世紀以上経過した古教会〟はどこも同様だった。大抵どこも、建物はそのままで象徴・ステンドグラス・天井画が差し変えられている。

 それはまるで乗っ取るみたいに……。

 なぜこんな事が起きたのかといえば、熾烈な宗教戦争が起きたからとしか説明しようが無い。

 ツァール帝国以前の時代。今日では〝忌むべき暗黒期〟と呼ばれるツァイト王朝期は、能有りが国の上位に立ち、政を牛耳っていた。

 書籍によれば、かつて能有りの力、呪法ではなく〝聖法〟と、なんともおこがましい呼ばれ方をしていたらしい。

 彼らが崇拝したのは唯一神は〝クレプシドラ〟と呼ばれる刻の偶像。

 能有りの持つ力は、このクレプシドラから授かったのだと言われていた。

 しかし、旧国ツァイトの後期──世界は華やかな発展をし始めた時代だった。

 ツァイトは他国に比べ発展が遅れ、古典的だった。

 経済水域も低く、上層と下層で貧富の差があまりにも激しかったなんて言われている。また古書の一文によると、ツァイトの政は、聖職者や占者たちの「導き」を頼りにしていた。何事も神託や精霊頼り……と、いい加減だったそうだ。

  その癖に、西の国々一体に当時巻き起きた〝歪んだ真珠〟とも喩えられる絢爛豪華な文化が流行りに流行って、貴族王族、聖職者……と、上層の暮らしに色濃く影響されたそうだ。

 宗教的建造物も、これを大きく影響を受けていたとも言われている。

 だが、帝都の象徴とも言われるファルカ大聖堂は、ツァイト前期の尊厳たる文化のもの。

 所謂〝まだ良かった時代〟の産物だ。

 今のツァールの教えと変わらぬ、荘厳たる文化を強く主張した建造物だからこそ、そのまま利用しているそうである。

 片や、中~後期に起きた絢爛豪華な建造物においては戦乱で大半が焼却された。

 また、残ったものに関してもツァール帝国建国と同時に、忌々しいと全てが取り壊されたとされている。

 国が崩れた最大の原因は、忌々しい絢爛豪華で贅沢な文化は勿論の事。上層にいた聖職者を中心とする能有りたちが『刻の偶像に選ばれた神子』と自らを語り傲った事が、もっともの原因と言われている。

 よって、能を持たぬ者が反乱を起こし、新たな神……機械仕掛けの偶像と呼ばれる〝デウス・エクス・マキナ〟を降ろしたらしい。

 

  そもそもデウス・エクス・マキナとは演劇手法から由来する言葉である。

 ──舞台装置により現れ、裁きを下し解決に導く絶対的な存在。

 即ち、どんなに困難な場面からでも解決に結びつけてしまう。謂わば〝ご都合主義〟とも言うだろう。それを由来したのだと考察する事は容易かった。

 おぞましさを越えて神々しい──機械仕掛けの鳥、或いは機械仕掛けの天使としてステンドグラスや天井画に描かれたデウス・エキス・マキナは、強き力を用いて刻を切り裂き、このツァール帝国を造った礎に成り象徴となった。

 ──崇拝の象徴は歯車の中の火輪。その下には同じ長さの線で結ばれた十字が描かれ、翼を広げた鷹が強靱な足で掴んでいる姿が描かれている。

 この発展の象徴に助長するように、その後ツァールは製錬や機械科学の技術が発展した。そうして、幾度も戦を起こしては隣国を吸収し国は先進的な大帝国と成り栄えたのである。

 片や、かつて国の上位に位置した能有りは迫害を受けるようになった。

 新しい国が始まってすぐ、数多くの能有りが粛正された。

 また、生まれて来た子に能があれば、森や湖に遺棄する〝精霊還し〟という間引きを行い忌々しい血を絶えさせようとした時期あったらしい。

  だが、結局は隔世遺伝か突然変異だ。

 両親が能を持たないとしても、能有りは生まれる事がある。

 それを一つ一つ虱潰しにすれば、いずれ労力も減り国が衰退する事を危惧したのだろう。よって今日の能有りは生かされる選択をされている。

  とは言っても、やはり忌まれた力を持つ者であり、〝かつての信仰に選ばれた者〟という印象が深く、親に捨てられる孤児が多い。

  尚、能有りとして生まれたキルシュの生い立ちにおいては、本人もよく分かっていない。

 前途した通りの孤児院育ちらしく記憶喪失だ。

 失われた記憶の事について、あまり興味は無かった。どうせろくでもないものだと想像できるので、取り戻そうとも思えなかった。

 なので、キルシュとしても『慈悲深い前領主に救われた』『幸運な孤児』としか思えなかった。

 当然、引っかかる部分は沢山ある。苦しく思う事は時々ある。

 救われている癖に劣等生……恩こそ仇で返す罪悪感は常々あるが、どうにもそれ以外にも滞りはずっと心の奥底にある。しかし、そこに手を入れて探るのは、どうにも怖かった。

 永遠に閉じ込めたままで良いだろう。そう思い続けて何年も。

 そうしていつしか、キルシュは自覚した。

 ……私は、心から笑った事が無い。

 笑えない、笑ってはいけないと。

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    『キルシュの力って本当に綺麗だなぁ……』 少年の感嘆とした声が脳裏に心地良く響く。 玻璃を貫く斜陽は赤や黄、青に緑に白と複数の光を落としていた。やがて映し出されるのは、昨晩見た景色と同じ、木造立ての礼拝堂の中だった。 聖母の美しいステンドグラスの正面の座席に腰掛けているのは〝人であった頃のケルンと思しい少年〟と幼い自分の二人だけ。 幼いキルシュは、自分の名と同じ桜桃の花を手にひらから萌やしては光に還す……と、自分の力で遊んでいた。『なぁ、キルシュって確か、見た事のある花は何だって、出せるんだよな?』『うん、そうだよ?』  幼いキルシュは花咲く笑顔でふわふわと答えた。  ──キルシュの持つ能有りの力は、草花を芽吹かす力。しかし、これは〝キルシュ自身が見た事がある植物のみ〟という限定的な条件がある。  恐ろしい事があれば、蔓薔薇の茨となり身を守ろうなんて事もあるが、これだって見た事があるものだから具象できる。 しかし能有りの力は感情に左右されるもの。大袈裟に肥大し、実物を上回る恐ろしい大きさになる事もあるが、意図的に具象する分には普通の花の大きさと変わらない。 手のひらから出す事もできるが、地面に手を置けば、辺り一面を花畑にもできる。使いどころは不明で本当にどこまでも無駄な力だが、確かに綺麗な力とはキルシュ自身も思っていた。 能有りになんて生まれたくなかった。そうは思うが、素直に花は好きだった。 どこまでも無害で罪が無くて、美しい。その気持ちは幼い頃も変わらず同じだったのだろう。幼いキルシュは得意げになって今度は大量のかすみ草の花を芽吹かせて宙に散らす。 ふわふわと小さな花が降り注ぐ様は雪のよう。床に落ちると光に還り、キラキラと空間に漂った。 その光景を見て、ケルンだった少年は『すげぇ』なんて言って目を輝かせる。『なぁ! そうだ、キルシュ。おれさ、向日葵って花が見てみたい!』  前のめりになる彼に、幼いキルシュは首を傾げる。『

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   20話 その瞳はあまりにも真っ直ぐで

    「な、なんでよ……」    唇をわなわなさせてキルシュが訊くと、彼はニタリと悪戯げに笑う。  二十歳前後の年端だが、唇の端を吊り上げていると、何だか悪戯小僧さながらの面影がある。「舐めたら甘そうな身体を無防備に見せてきた癖に。いいだろ別に」  ──キルシュって反応が面白いな。そのくらいの仕返しさせろ。なんて少しばかり意地悪に付け添えて、ケルンは笑う。 恥ずかしくて堪らない。キルシュは真っ赤になって、ケルンを睨む。  確かに、自分のやらかしに違いない。それでも、何だか腑に落ちない。キルシュはむっと頬を膨らませた。  しかし、舐めたら甘そうって……。その言葉を反芻してしまい、キルシュは更に頬を赤くした。   「……機械人形の癖に変態よ、不浄よ。ファオルと関わりがある時点で、貴方って一応は刻の偶像に関わりがある神聖な存在なんでしょ?」 対するケルンは、目を細めてどこか気まずそうに顎を掻く。   「あのなキルシュ。さっきも言ったが、俺は〝出来損ない〟だ。完全じゃないんだよ。だから、人と同じ成長してるし、普通に男として機能はあるんだよ」 ──無防備なおまえが心配になる。でも、そういう事も普通に考えるのは構造上、仕方ないだろ。……なんて、彼はふて腐れたようにブツブツと言った。 こうも精悍な面なのに、表情をコロコロ変えている所を見ていると、本当に人間らしいなと感心してしまう。しかしこれを言っていいものか。キルシュは、彼に着せてもらったシャツの裾をきゅっと握って居住まいを正す。「確かに貴方の事は、元が人間だと分かっているけど……」 ……自立し思考し、自我を持つ。それは人と何ら変わらない。それに、呼び覚ました記憶の中の彼は間違いなく人だった。今と髪色も瞳の色も違うが、それでもはっきりとした面影があり、大人へと成長した姿なのだろうと分かる。    しかし、どうしてそんな姿になってしまったのだろう……。  きっと、相応の理由があるのは、考えなくとも理解できた。  蘇った記憶の断片では元親友。とはいえ、自分にはこれまでの記憶なんて一つも無いし覚えていない。出会ってたったの一日だ。  ──元が人間だの言わない方が良かった。キルシュはすぐに後悔した。「ごめんなさい、私、とても無神経だった」 キルシュは素直に詫びた。気分を害してもおかしくない事だ。

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   19話 暗闇に光る金の双眸

     午前二時過ぎ。静かに部屋を出たキルシュは、手燭を持って台所に向かった。 夕食の時に『ベリーのジャムと黒いパンは作り置きが沢山あるからいくらでも食べて』なんてシュネに言われた事を思い出したのだ。 きっと、頭に糖分が足りていない。だから、こんなにも暗い気持ちが押し寄せるのだろう。一人で納得したキルシュは、軋む音が鳴らないように螺旋階段を足早に下って台所で向かった。  この教会は〝歪んだ真珠の文化〟そのものの仰々しい装飾だらけだが、構造は単純で最低限の部屋しか設けられていない。 二階には部屋が四つ。下には台所と礼拝堂があるだけで、あとは廊下だけ。だから、たった一度の案内でも全てが把握できた。  難無く台所まで辿り着いたキルシュは、真鍮のドアノブを捻り、扉を引いたと同時だった──ゴソリと闇の奥で何かが蠢く気配を感じ取ったのだ。 何事か。まさか、狂信者だろうか。 だが、彼らはこの教会近辺にまず近づかないとは聞いた。手燭を握る手はカタカタと震え、掌から手首を這ってゆっくりと蔦が萌え始める。 「……誰かいるの?」 臆しながらキルシュは問いかける。すると、台所の奥深くの闇に二つの黄金の光がポッと灯った。 正体は不明。だが、それが目だと分かり、キルシュは『ひっ』悲鳴を出しかけた途端だった。〝何か〟が音も立てずに恐ろしい勢いで接近してきたのだ。 そうして、瞬く間にキルシュは背後から羽交い締めにされ、唇を塞がれた。「──ん!」 悶えながらキルシュは上を向く。すると間近で黄金に光る瞳と視線が交わった。(ケルン?) 間近に映る彼の精悍な顔立ちと、神秘的な輝きを宿して光る瞳にキルシュの鼓動は高鳴った。「……騒ぐな。シュネが起きる」 何かを口に含んでいるようなモゴモゴとした喋り方にキルシュは違和を覚えたと同時、ベリーの甘酸っぱい香りが鼻腔をつきキルシュは目を瞠る。 キルシュは腕まで巻き付いた蔦の具象を解く。すると、彼もキルシュを離した。

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   18話 悩める少女の眠れぬ夜

     その日の夕食は、穀物の練り込まれた黒いパンに、キノコのスープ。それから魚を焼いたものと腸詰め肉にベリーのソースを添えたものだった。  シュネは、基本的に自給自足と物々交換の生活を送っているらしい。森でとれたキノコやベリーをレルヒェの市場へ持って行き、小麦や肉類、衣類などと交換しているそうだ。また、魚に関しては、夕飯時になると台所に置かれているそうで……恐らくケルンが湖で釣ってくるのだろうと言っていた。    ケルンの生活は、五年半の月日をともに暮らしているシュネでさえも大して把握していないそうだ。  分かる事は、今日のように晴れた日の日中は教会周辺で眠っていて、夜になれば動き出す……と、まるで野生動物のような生活を送っているらしい。    しかし、ケルンは動物とは違う。無機物だ。  それ故か、彼が食事を必要としないらしい。全く食べられないというわけではないらしいが、要らないと……。  ゆえに、これだけともに長く暮らすシュネでさえ彼が何かを食べている場面は一度も見た事が無いそうだ。 間違いなく後天的。とは言っても、機械に支配された身体なのだから、食べ物がエネルギーになるとは考え難い。いったい何が動力源なのだろうか……と、そんな疑問が浮かんでくる。  しかし、連想できる事は一つだけあった。 ──あの時、彼は力の解放にキルシュの〝心〟を喰った。  その時にされた行為はさておき。あの時『回復するのに』という言葉を言っている時点で、通常時は自然に動力を回復されているのだと思しい。  昼間は眠っている事が多いと聞くので、睡眠が大きいのだろうとは想像できた。    そもそも、〝機械仕掛けの偶像になり損ねた〟なんて発言や、神秘的生物のファオルとの接点などを考えると、もっと神秘的で神聖で人知を超えたものが絡んでいるのだろうとも考えられる。    しかし、あまり彼の事は考えないようにしよう。  どうにも、キスの事ばかり思い出してムズムズしてしまうのだ。  キルシュは湯浴みの後、与えられた部屋の中、ベッドの上に転がってお気に入りの古書を読み始めた。 今キルシュが纏っているものは、シュネが貸してくれた卵色のナイトドレスだった。  喩えるのであれば、その形状は森に咲くホタルブクロの花を連想する。胸や腰周りはぴったりとしているが、裾にいくほど幾重にも

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   17話 昨晩の鮮烈な記憶

    「揃いも揃って騒がしいなぁ……」  続けて言った言葉は、欠伸を混じりの間延びした気怠げな声だった。 ストン。と、目の前の落葉樹の枝から音も上げずに降りた灰金髪の青年はゆったりとこちらに歩み寄って来る。 それは紛れもなく昨晩出会った〝機械仕掛けの偶像になり損ねた〟と自称する機械人形─ケルンだった。 彼の容姿は目立つ。なかなかの長身だ。それなのに、そこに居た事に気付きもしなかった。 否、そんな場所にいる事を誰が予想をするものか。だが、驚いているのはキルシュ一人だけ。それが彼にとっては日常なのだろう。「もう、ケルンってば。寝るなら部屋で寝ればいいのに……木から落ちたら危ないわ」 肩を竦めて呆れ気味に言うシュネにケルンは、伸びをしながら欠伸を一つ。「天気が良いから、昼寝は外の方が気分が良いんだよ」 …………機械人形も寝るんだ。と、どうでも良い感想が頭に浮かんだ。 だが、彼は間違いなく後天性。だから、別にそれが普通なのだろうと納得する。しかし彼の顔を……薄くも形の良い唇を見た瞬間に、キルシュの脳裏には昨晩の事が蘇った。 心をくれ。そう命じられて。上を向かされて、大人のするような、随分と情熱的で官能的なキスをされた。それも初めてのキスで……。 その唇は温かみがあった。食まれ、貪られるように何かを絡め取られ……と、生々しい程に鮮明な感触が途端に口の中に蘇り、キルシュは慌てて唇を押さえた。 (普通なら嫌な筈なのに。ファーストキスなのに。なんで私……)  キスは心を通わせて両思いになった愛し合う男性とするもの。そういう常識があるのに。そうが良かった筈なのに、あんなに無理矢理……。キルシュは戸惑った。 ただ恥ずかしいだけで、決して嫌な心地が無かった自分に戸惑ってしまう。

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   16話 忌まわしきの象徴の名残

     昼食後、建物内の案内をするとシュネに言われて、キルシュはその後を付いて歩いていた。 誰もが近寄らぬ森の中に、建造物がある事自体にも驚いてしまうが、それ以上にこの建物の古典的で絢爛とした美しさに驚いてしまった。  ──月白の塗料に彩られた優美な曲線を描く螺旋階段は、歩めば軋んだ音が上がった。手すりの下の格子は唐草を思わせる飾り。そして、廊下に敷き詰められた臙脂色のカーペットも、通路の壁に設置された黄金の燭台も黒く煤けていて、かなり年季が入っている事を窺える。 ……見るからに、数世紀昔の屋敷のようだった。 華美なドレスのように、幾重ものレースがあしらわれた天蓋の付いた大きなベッドに、華やかな調度品の数々……。 それはどの部屋にも設置されていて、部屋の奥には蜉蝣の羽根のように透き通ったベールの付いた猫足のバスタブが置かれていた。  どの部屋も楕円型の間取りで窓までも丸みを帯びている。そして、目立つものといえば『これでもか』と言う程に施されたゴテゴテとした漆喰装飾だ。至るところに散りばめられた煌びやかさにキルシュは目眩を覚えた。  そうして、最後にシュネに案内された部屋にキルシュは圧倒された。  そこは、こぢんまりとした礼拝堂だった。 黄金と白を基調とした祭壇には天使や聖者の彫刻の数々が左右対称に配置されている。飾り柱にも細やかな装飾や聖人のレリーフの数々がひしめいていた。美しい彫刻の数々に促されて、そのまま宙を見上げて更に気圧された。 太陽が照りつける雲の上で数多の天使が歌う。 その反対側で茜髪の聖女が闇の中、輝かしい黄金の光を抱き茨の弓を引く──荘厳な天井画が色鮮やかに描かれていたのだ。  キルシュ自身、美術に深い関心がある訳でもない。それでも、この天井画は見惚れる程に美しいかった。しかしどういった訳だろう。この絵を見れば見る程どこか不安を掻き立てられる。キルシュはすぐに天井画を見るのをやめた。「綺麗でしょう? でもね、何だか不穏な気配がしちゃって私もキルシュちゃん同じ反応しちゃ

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   15話 その揶揄いは不快ではなく

     ……そうだ、キスしたのだ。 それも初めてのキスで舌を絡められて、随分と官能的なキスをされたのだ。 しかし不思議と不快ではなくて、少し……いいや、びっくりするほど気持ち良かった。自分でも本気で意味が分からない。 途端にキルシュは真っ赤になって唇を押さえる。 それにあの記憶の中の少年が彼と同一人物の〝ケルン〟というなら……。『いつか、おれの事を好きになってくれたら、お嫁さんになってほしい!』そんな言葉を言われた気がする。つまり、最初から自分に好意を持っていたという事になる。  そもそもだ。初めて出会った瞬間に彼は『見つけた』と言った。 ファオルの件もあって、ずっとこの日を待っていたように窺えてしまう。 しかし幻視を見るだの、非現実的な事が起きている。あれは本当に、同一人物なのか。何らかの変な力を使って、都合の良い夢でも見せられたのだろうか……。 キルシュは真っ赤になったまま黙考に耽る。だが、そんな様子に心配したのだろう。「キルシュちゃん、どうしたの?」 顔が真っ赤よ。と、シュネに心配そうに言われて、キルシュは我に返った。 同性とは言え初対面だ。『そのケルンに唇を奪われた』だのさすがに言えたものではない。 キルシュは慌てて首を横に振るう。 「大丈夫です、すみません。色々思い出してぼーっとしてしまって」「いいのよ。でも、びっくりしたでしょう……あまりにもよくできた機械人形だって」「……はい」「私も初対面は驚いたわ。確か、あれは五年程昔かしら……」  ──きっと、私たちは似たような立場だから話してもきっと問題なさそうね。なんて付け添えて、シュネは、薔薇色の唇を開いた。「私、北西部にあるシュトルヒ子爵領の牧師の娘なの。母は優しかったわ。けれど、父は能有りの私を疎く思って。二人は私の所為で喧嘩ばか

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   14話 目覚めたそこは

     パタンと、静かに扉が閉まる音がした。  暖かで柔らかな、陽の光に促されてキルシュはゆっくりと瞼を持ち上げる。(私は……ここは)    すぐに頭に過ったのは昨晩の二つの出会いだった。  喋る鳩に、自立し思考する機械人形。それも元人間、能有りと思しくて……。 どちらも、現実的ではないものだった。まるで夢でも見ていたかのように思う。だが、見知らぬ絵画の天井と身体を包む暖かで柔らかな掛け布団の感触に、ここが学院寮でも伯爵家の屋敷でもないとキルシュは改めて理解した。(……どこだろう)    疑問は湧き立つが、それ以上に空腹の方が気になってしまう。  どこからか、ベリーを煮詰めたような甘酸っぱい香りが漂ってくる。それがジャムだったら、パンにたっぷりつけて頬張りたい。そんな事を考えつつも、キルシュは寝返りを打つ。 それもそのはずだろう。最後の食事は前日の朝。帝都の寮で朝食をとったきりで何も口にしていなかったのだ。  せめて、部屋に運ばれた夕飯くらい食べればよかった……と、後悔して、キルシュはぺったんこになった自分の腹を摩ったと同時だった。   『ケケケ……。起きたか徒花の眠り姫』 軽い調子の声と共に、目の前にポッと光の渦がポッと灯った。そこから羽ばたいて姿を現したのは昨晩出会った、喋る鳩、ファオルだった。   (ああ、やっぱり夢じゃなかった)    もしかしたら自分は頭がおかしくなって、変な幻覚でも見続けていたのかとさえ思っていた。そうではなかった、よかった。と、改めて思い、キルシュは自然と唇を緩めて、安堵した顔になる。     そんな顔に見かねたのだろうか。ファオルはツンとキルシュの額を嘴で突いた。「いだっ」 『何を惚けた顔してんだよ~おまえ本当にお気楽だなぁ』 愛らしい子どもの声だが、やはり憎たらしい。  突かれた額を擦りながら、キルシュは恨めしくファオルを睨む。   「った……何するのよ、痛いじゃないの」 『だってさぁ。なーんかキルシュを見てると、腹

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