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3話 消えない差別の理由

last update Last Updated: 2025-03-10 14:30:03

 帝都から、南部レルヒェ地方までの距離はなかなか遠いもので、汽車でおおよそ半日の旅となる。そこから更に数十分馬車に乗り継ぎ、ヴィーゼ伯爵家に。

 現在は昼過ぎ。帰る頃にはもう暗くなっているだろう。なかなかの長旅だ。

 ファルカ駅から汽車に乗り込んだキルシュは車窓から移り変わる景色をぼんやりとと眺めていた。

 日中の列車となれば当然乗客が多い。四人掛けの対面座席のシートは全て埋まっていた。

 都会の人間はそんなに他人をジロジロと見ないだろう。

 そうと分かるが、乗客も多いからこそキルシュは能有りの紋様を隠す為に上品なレースのあしらわれた薄手の手套をはめた。

 謹慎処分中の宿題も学院から出されたが、今はまだ手を付ける気になれやしない。

 ぼんやりと窓の外を眺めて、このまま時間なんて止まってしまえば良いのに……なんて、非現実的な空想ばかり浮かべていた。

 けれど、いつまでも続く錆色の街を眺めていても気が滅入るばかりだ。

 帝都中心地に聳え立つ、大聖堂の左右対称の円錐屋根が小さくなり始めた頃、キルシュはようやく外の景色を見るのを止めた。

 ほぅ。と、一つ息を吐き出して、気持ちを切り替える。そうして、キルシュは鞄から一冊の本を取り出した。

 それは、ツァール帝国建国時程に書かれた神話や民話などを寄せ集めた古書で、古本市で購入した大のお気に入りの一冊だった。

 しかし、この書物は旧語で綴られているので、とてつもなく読みにくい。それでも、全く読めない訳でもなかった。

 否……キルシュだからこそ読めるのだ。

 彼女は確かにパトリオーヌ女学院の成績最下位、劣等生だ。

 だが、それは重要科目の理数学においての事。

 古典文学・語学・史学といった大して成績に加点されない、部類の学識に対しては、学院で右を出る者はいないと程にこの才だけは長けていた。

 大陸にある周辺国とツァールに程近い離島国。合計五~六カ国語なら問題無く読み書きができる。キルシュとしてもほんの少しだけ誇れる特技だった。

 近隣国の言語においては、文法と法則さえ掴めば決して難しいものではない。

 それは、今日では古文と言われる旧語も同じだ。

 言葉は少しばかり冗長だが、法則さえ掴めば解読は簡単で、今日使われているツァール語と大差は無かった。

 数式を解く事は微塵も楽しいとは思わない。けれど、古文の羅列を解く事は心から楽しいと思えた。

 それでも、あまり役に立つ学識ではないので、〝劣等生〟に変わりない。語学も同様だ。貿易商などで働き、外国人との交渉の場があるのなら便利に違いないが、女貴族は今の時代も基本的に仕事なんてしない。

 女の学識というのは、あくまで男の補佐に違いなかった。

 それでも、成績というのはその娘が、どれだけ優秀か、有能かを図る大きな材料に変わりない。なので、今日の貴族の娘の結婚は、成績の良し悪しで縁談が来る・来ないと分かれるものだった。

『この才能が、理数学であればどれ程幸せだったのだろう』と、考えた回数は数知れず。人には得意不得意はあるので、仕方ないとほぼ諦めているが、これでは完全に将来嫁ぎ遅れるだろう。キルシュはほんの少しだけ、そんな焦りも持っていた。

 なにせ、クラスメイトたちの話に耳を傾けていれば、どうにも半数ほどの生徒が既に縁談があるのだと思しい。中には既に婚杓者がいる人だっていて……。

 自分には何だか、程遠い話のように思える反面で、少しだけ羨ましいように思えてしまう部分があった。

 現在十七歳。いつか恋だってしてみたい。素敵な男性に見初められるなんて淡い夢は抱いてしまう。しかし、何だかそんなの事は、夢のような話に思えてしまう部分もある。

(……さて。そんな事より、私どこまで読んだんだっけ)

 はぁ。と、ため息を一つ。キルシュは本の中身に向きあった。

 バラバラとページを捲って索引へ。

 ──精霊の項に魔獣の項、ツァール聖教の成り立ち……忌々しい神とされる刻の偶像の項に現在の信仰、機械仕掛けの偶像の項。

 これまで多くの古書を読んできたが、どれも似通った宗教じみた話が多い。

 そもそも、ツァール帝国と宗教の歴史は切っては切り離せない程に深いものに違いない。なぜなら、教権主義は今昔変わらないが、国が変わったと同時に崇拝も変わったのだから。

 帝都の象徴とされる、巨大なファルカ大聖堂だって本当は旧国の神を讃え祀っていた聖域だった。歴史的に築五世紀以上が経ったと聞いた事がある。

 しかし、二百年以上前、旧国が滅びた事によって、新たに信仰ツァール聖教が広がった。

 そうしてあの大聖堂は、取り壊される事も無くステンドグラスや象徴を差し替えるなどして、今日も使われている。

 それは、ツァール帝国中の〝築五世紀以上経過した古教会〟はどこも同様だった。大抵どこも、建物はそのままで象徴・ステンドグラス・天井画が差し変えられている。

 それはまるで乗っ取るみたいに……。

 なぜこんな事が起きたのかといえば、熾烈な宗教戦争が起きたからとしか説明しようが無い。

 ツァール帝国以前の時代。今日では〝忌むべき暗黒期〟と呼ばれるツァイト王朝期は、能有りが国の上位に立ち、政を牛耳っていた。

 書籍によれば、かつて能有りの力、呪法ではなく〝聖法〟と、なんともおこがましい呼ばれ方をしていたらしい。

 彼らが崇拝したのは唯一神は〝クレプシドラ〟と呼ばれる刻の偶像。

 能有りの持つ力は、このクレプシドラから授かったのだと言われていた。

 しかし、旧国ツァイトの後期──世界は華やかな発展をし始めた時代だった。

 ツァイトは他国に比べ発展が遅れ、古典的だった。

 経済水域も低く、上層と下層で貧富の差があまりにも激しかったなんて言われている。また古書の一文によると、ツァイトの政は、聖職者や占者たちの「導き」を頼りにしていた。何事も神託や精霊頼り……と、いい加減だったそうだ。

  その癖に、西の国々一体に当時巻き起きた〝歪んだ真珠〟とも喩えられる絢爛豪華な文化が流行りに流行って、貴族王族、聖職者……と、上層の暮らしに色濃く影響されたそうだ。

 宗教的建造物も、これを大きく影響を受けていたとも言われている。

 だが、帝都の象徴とも言われるファルカ大聖堂は、ツァイト前期の尊厳たる文化のもの。

 所謂〝まだ良かった時代〟の産物だ。

 今のツァールの教えと変わらぬ、荘厳たる文化を強く主張した建造物だからこそ、そのまま利用しているそうである。

 片や、中~後期に起きた絢爛豪華な建造物においては戦乱で大半が焼却された。

 また、残ったものに関してもツァール帝国建国と同時に、忌々しいと全てが取り壊されたとされている。

 国が崩れた最大の原因は、忌々しい絢爛豪華で贅沢な文化は勿論の事。上層にいた聖職者を中心とする能有りたちが『刻の偶像に選ばれた神子』と自らを語り傲った事が、もっともの原因と言われている。

 よって、能を持たぬ者が反乱を起こし、新たな神……機械仕掛けの偶像と呼ばれる〝デウス・エクス・マキナ〟を降ろしたらしい。

 

  そもそもデウス・エクス・マキナとは演劇手法から由来する言葉である。

 ──舞台装置により現れ、裁きを下し解決に導く絶対的な存在。

 即ち、どんなに困難な場面からでも解決に結びつけてしまう。謂わば〝ご都合主義〟とも言うだろう。それを由来したのだと考察する事は容易かった。

 おぞましさを越えて神々しい──機械仕掛けの鳥、或いは機械仕掛けの天使としてステンドグラスや天井画に描かれたデウス・エキス・マキナは、強き力を用いて刻を切り裂き、このツァール帝国を造った礎に成り象徴となった。

 ──崇拝の象徴は歯車の中の火輪。その下には同じ長さの線で結ばれた十字が描かれ、翼を広げた鷹が強靱な足で掴んでいる姿が描かれている。

 この発展の象徴に助長するように、その後ツァールは製錬や機械科学の技術が発展した。そうして、幾度も戦を起こしては隣国を吸収し国は先進的な大帝国と成り栄えたのである。

 片や、かつて国の上位に位置した能有りは迫害を受けるようになった。

 新しい国が始まってすぐ、数多くの能有りが粛正された。

 また、生まれて来た子に能があれば、森や湖に遺棄する〝精霊還し〟という間引きを行い忌々しい血を絶えさせようとした時期あったらしい。

  だが、結局は隔世遺伝か突然変異だ。

 両親が能を持たないとしても、能有りは生まれる事がある。

 それを一つ一つ虱潰しにすれば、いずれ労力も減り国が衰退する事を危惧したのだろう。よって今日の能有りは生かされる選択をされている。

  とは言っても、やはり忌まれた力を持つ者であり、〝かつての信仰に選ばれた者〟という印象が深く、親に捨てられる孤児が多い。

  尚、能有りとして生まれたキルシュの生い立ちにおいては、本人もよく分かっていない。

 前途した通りの孤児院育ちらしく記憶喪失だ。

 失われた記憶の事について、あまり興味は無かった。どうせろくでもないものだと想像できるので、取り戻そうとも思えなかった。

 なので、キルシュとしても『慈悲深い前領主に救われた』『幸運な孤児』としか思えなかった。

 当然、引っかかる部分は沢山ある。苦しく思う事は時々ある。

 救われている癖に劣等生……恩こそ仇で返す罪悪感は常々あるが、どうにもそれ以外にも滞りはずっと心の奥底にある。しかし、そこに手を入れて探るのは、どうにも怖かった。

 永遠に閉じ込めたままで良いだろう。そう思い続けて何年も。

 そうしていつしか、キルシュは自覚した。

 ……私は、心から笑った事が無い。

 笑えない、笑ってはいけないと。

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